LOGIN旧校舎の廊下は、ひんやりとした空気に包まれていた。雨上がりの夕暮れが差し込むガラス窓の向こうで、風が木々を揺らす。美佳の靴音だけが、静まり返った空間に響いていた。
「……ここに誰か、いたよね?」 胸騒ぎが止まらない。誰かの気配。追われているような、逆に誰かを追っているような──そんな曖昧な感覚に、美佳は額の汗を拭った。白いシャツが背中に張りついている。 旧校舎には電灯が通っていない。一部の教室に仄かに届く夕日だけが、彼女の視界を辛うじて照らしていた。突然、奥の教室から、ガタン──と物音がした。 美佳は息を呑んで足を止めた。 「……誰?」 返事はない。だが、確かに人の気配がする。恐怖と好奇心のはざまで、美佳はそっとドアに手をかけ、開いた。 軋む音と共に現れたのは、誰もいない空の教室だった。机はきちんと並べら無機質な白い扉の前で、彩音は立ち止まった。 その手には、小さな銀色の鍵が握られている。鈍い光を帯びたその鍵は、彼女の指の中でわずかに震えていた。長く持ちすぎたのだ。心ごと、冷えてしまいそうなほどに。 「……この先に、すべてがあるの?」 美佳の問いかけに、彩音はゆっくりと頷いた。 「ええ。でも……それを開けるかどうかは、あなたの意思に委ねられている。私はそれを、あなたに渡すために、ここに来たの」 鍵を渡されるのだと気づいた瞬間、美佳は息をのんだ。 まるで、この一瞬が運命の岐路であるかのように。 それでも、手を伸ばさなければ、何も変わらない。 彩音の手の中で、鍵が静かに持ち上げられた。 それはまるで「重荷」のようでもあり、「解放」のようでもあった。 「どうして……私なの? あなたが開ければいいじゃない」 美佳の声にはわずかにためらいが混じっていた。 彩音はふっと笑った。儚い、けれどどこか懐かしい笑みだった。 「私は、記録する者でしかない。選び、開き、進むのは、あなた──三枝美佳の役目よ。これはあなたがずっと背負ってきた物語なの。あなたの手で、結末を迎えなきゃ」 その言葉に、心の奥で何かが静かにほどけた気がした。 彩音が鍵をそっと美佳の手のひらに乗せると、その金属の冷たさが指先から伝わった。 「ここを開けた瞬間、すべてが動き出すわ。もう、元には戻れない」 美佳は鍵を見つめた。 彼女の指先が、かすかに震
──どうして、こんなにも懐かしいのだろう。彩音の声が耳に残る。「ちゃんと、迎えにきたよ」と微笑むその表情は、今も鮮明に記憶の中に焼きついている。だが、美佳にはまだわからない。彼女が「どこへ導こうとしているのか」、その全貌は霧の向こうだ。「彩音……あなたは、何を知っているの?」風に揺れる制服の裾。あれは、LAPISの制服ではない。かつての藍都学苑の、懐かしいセーラー服──。それが、彼女の存在がただの幻覚でないことを告げていた。「答えはもうすぐ、あたしの役目は、あなたに“鍵”を渡すこと。それだけ」「鍵……?」「うん。思い出して。あの日、わたしと最後に話した場所を。そこに、あなたを待つ“扉”があるの。今のあなたなら開けられる。だから、お願い──向かって。時間がないの」そう言うと、彩音は静かに手を差し出した。その手の中に、小さな金属のペンダントが握られていた。美佳の胸がざわめく。その形に見覚えがある。中学のとき、二人で「おそろいにしよう」と言って買ったものだ。が──それは、失くしたはずのものだった。「……どうして、これが……?」「あなたの心の中に、ずっとあったからだよ」彩音が手を開いた瞬間、ペンダントがふわりと宙に浮かび、美佳の首もとへ吸い込まれるように戻っていった。カチリ。小さな音とともに、空間にひびが入る。「扉が開いた──あとは、あなたが歩く番」目を見開いた美佳の前で、彩音の姿は薄れていく。「待って……まだ、話したいことが……!」「また会えるよ。ほんとのあな
「鍵──?」美佳の声に、七海彩音は静かにうなずいた。旧校舎の中庭で再会したその姿は、どこかあの頃よりも大人びていたが、瞳の奥には変わらぬ熱が宿っていた。「これ、あなたが持っていた方がいいと思ったの。私には、もう……開ける意味がないから」彩音が差し出したのは、小さな金属製の鍵だった。LAPIS本部で用いられているような電子カードではない。鈍く光るその鍵には、古い刻印と、指に馴染むような摩耗が見て取れた。「これは……どこの鍵?」「“あの部屋”よ。私たちが最初に“アンケート”と出会った場所。覚えてる? 第一校舎の地下、資料保管庫の奥──」美佳の脳裏に、封印されたような記憶がふいに蘇る。旧校舎が取り壊される前、進入禁止とされていた扉の先。かつて、自分たちが“無邪気な好奇心”で踏み込んだ場所。「あのとき、何かを見た気がして……それ以来、夢の中で繰り返し出てくるの」「そう。それが“アンケート”の原型──《prototype》よ」彩音は、視線をそらさずに語る。その声に嘘はなかった。朝倉純や東郷翔でさえ知らない、“始まりの真相”がそこにはあるような気がした。「でも、どうして私に?」「あなたが──再構築に必要な“ピース”だからよ。たぶん、最初から」風が吹き抜け、二人の間の沈黙をそっと撫でる。「私ね、美佳……あの事件のあと、ずっと逃げてたの。本当のことから、LAPISから、自分の罪から。だけど、あなたは前に進もうとしてる。だから、“鍵”を託したかった」「私も……怖いよ。全部、思い出したら壊れそうで。でも、誰かが開けなきゃって思ってる」そう言って鍵を受け取る美佳の手は、少し震えていた。
旧校舎の廊下は、ひんやりとした空気に包まれていた。雨上がりの夕暮れが差し込むガラス窓の向こうで、風が木々を揺らす。美佳の靴音だけが、静まり返った空間に響いていた。 「……ここに誰か、いたよね?」 胸騒ぎが止まらない。誰かの気配。追われているような、逆に誰かを追っているような──そんな曖昧な感覚に、美佳は額の汗を拭った。白いシャツが背中に張りついている。 旧校舎には電灯が通っていない。一部の教室に仄かに届く夕日だけが、彼女の視界を辛うじて照らしていた。突然、奥の教室から、ガタン──と物音がした。 美佳は息を呑んで足を止めた。 「……誰?」 返事はない。だが、確かに人の気配がする。恐怖と好奇心のはざまで、美佳はそっとドアに手をかけ、開いた。 軋む音と共に現れたのは、誰もいない空の教室だった。机はきちんと並べられておらず、一部は倒れ、黒板には「おかえり」と、白いチョークで殴り書きされていた。 ぞくりと背筋を冷たいものが走った。 「……何これ……」 そのときだった。背後から風のように誰かが駆け抜けた気配がした。 「待って!」 美佳は振り返って追いかける。長い廊下を駆け、階段を下りた先──体育用具室の前で、足音が止まっていた。 だが、そこにいたのは── 「純……?」 呼吸を乱し、驚愕と安堵が入り混じった表情のまま、美佳は言葉を失った。 朝倉純がいた。制服姿で、暗がりに溶け込むように壁にもたれかかっている。手には見慣れない黒い端末を持っていた。 「こんな場所まで来るなんて、君ってほんと、変わらないね」
目が覚めると、天井は薄暗く霞んでいた。蛍光灯の音が、遠くで揺れている。「……夢?」 美佳は呟いた。だが身体の重さは現実そのもの。喉が渇いていた。何時間眠っていたのか、わからない。部屋は静まり返り、窓の外は薄い灰色をしていた。 時計を見る。午前四時。まるで時間の感覚すら欺かれているような気がした。スマホに手を伸ばすと、そこには未読のメッセージがひとつ。《アンケート通知:あなたの記憶に関する追加調査が必要です》 再び、それだ。 アンケート。その通知音を聞くたびに、胸の奥がざわつく。だが今回のメッセージには、これまでになかった記述があった。《あなたの提出した過去記録に矛盾《むじゅん》が検出されました》 過去記録……? そんなものを提出した記憶はない。だが美佳は思い出そうとした──同窓会、七海彩音との再会、失われた記憶、そして“ミオ”。 ふいに、背筋を冷たいものが這った。 そのとき、スマホがブルッと震える。画面に浮かんだのは、非通知の着信。指が動かず、見ている間に切れた。だが、次の瞬間に音声メッセージが届く。『美佳……聞こえる? あなたの記憶が、危ない。東郷が動いてる。──気をつけて』 震える指で再生を止める。声は、宮下ユリのものだった。 ユリ……彼女は今どこに? 再構築プログラムが始動してからというもの、連絡が取れないままだった。 誰が味方で、誰が敵なのか。LAPISの本部が藍都学園都市のどこかにあると聞かされてから、美佳の中では世界の輪郭が揺らいでいた。 情報が断片的で、繋がらない。自分の記憶すら信用できない現実で、何を信じればいいのか。
美佳と純は、会場の出口に向かって走り出した。だが、すでに扉は自動ロックされ、ガラスの向こう側にいた警備ロボットが無機質な音声で告げる。「安全措置発動中。退室は許可されていません」「くっ……!」純が拳を振るうが、分厚い強化ガラスはびくともしない。会場の中央では、有栖川玲が微笑みながら見下ろしていた。まるで予定された“反応”を待っていたかのように。「逃げようとしても無駄よ。この“記憶同期空間”からは、許可されたプログラムがなければ出られない」玲の言葉に、観客たちは一斉にざわめいた。「プログラム……?」美佳は懐から、先ほど七海彩音に手渡されたペンダントを取り出した。琥珀色のガラス玉の中心が、微かに青く点滅している。なぜか、それが“鍵”のように思えた。(これ……試すしかない)美佳がペンダントをガラスにかざすと、光がガラス面に吸い込まれるように拡がり──カチリ。「えっ……開いた!?」純が驚きの声を上げる。扉がゆっくりと開き、通路が現れた。「美佳、それ……?」「わからない。でも、彩音が“必要になる”って……!」ふたりは通路へと飛び出した。直後、背後で警報が鳴り響き、警備ドローンが起動する。《逃走者確認──制圧モードへ移行》「急げ!」廊下を走り抜けるふたり。施設の中は、かつての学園都市の記憶とはまるで違っていた。むき出しの配線、ガラス張りのカプセル、眠るように横たわる人影──。「まるで……人体実験の施設……」純が立ち止まりそうに